このページには、「MIE」の人生を詰め込みました。読み進めてもらえたら嬉しいです!
MIEブログとは?
私にとってブログは生活の一部です。
このMIEブログは、前に踏み出す「きっかけ」になれたらいいなという想いで書いています。
プライベートよりなことはLINEオフィシャルブログやInstagramでの更新が多いです。
MIEの小学生時代
わたしの人生は、自他共に認める「波乱万丈」でした。
どうでもいいですが、波乱万丈っていう番組が昔あったんだけど知ってますか?(知ってる人はアラフォー以上確定)、あれを見るたびに「出たい!」と思っていました。子どもながらにw
3歳で両親が離婚。北海道釧路市で母親と2人暮らし。
片親で兄弟もいませんでしたが、淋しい思いをした記憶はなく自由にさせてもらっていたように思います。
ただ、子どもながらに、日本の中心からだいぶ離れたところで生息している感が強くて、「本土(北海道以外の場所)はどんなところなのだろう?」といつも興味津々で、小学生の頃の趣味は「文通」でした。
文通相手が常時5人以上おり、毎日ポストを覗くのが楽しみのひとつ。
そして、文通相手の一人が、現在一緒に会社を運営しているマネージャーの吉村なお。
彼女との話はコチラに書いています🔽
いつも夢を語ったり、「どんなところに住んでるのか知りたいから家の写真を送って!」とせがんだりしていたなw
夢は、テレビの中の人間になること。ようは芸能人ってことです。
いつもミュージックステーションや生放送のクイズ特番を見ては「私は今テレビの前でダラっとしてるけど、この人たちは今この時間も緊張してたりキラキラしてたりするんだよなぁ。」と不思議な気持ちで見ていました。
田舎に暮らしていたことで、たくさんの人に私がここに生きていることを知ってもらいたい願望が強くて、それを一番叶えることができるのは芸能人しかない!という安易な理由です。
あの頃は、ブロガーとかインフルエンサーとかユーチューバーとかいないですからね。
3歳の頃から恥ずかしげもなく夢はタレントや芸能人と書いていたのですが、それは中学生になっても変わりませんでした。
MIEの中学生時代
小学生の頃は成績も上位でしたが、「芸能人になるために勉強は必要ない」と思うようになり、だんだん勉強がおろそかに。
「デビュー」というオーディション雑誌を買って眺めていたり、新聞のテレビ欄の下のオーディション情報を見たりするのが大好き。
飛行機に乗って札幌までオーデションを受けに行き、「合格」を貰うことでヨシっ。通用する。と自分の価値を確かめていたりもしていましたね。
中3の二学期に入り、みんながどこの高校を受験するか!?でソワソワしている中、母に「引っ越しして、大阪の高校に行きたい」と伝えました。
大阪に引っ越ししたい理由は、
- 高校からは都会に出ないとチャンスが激減するから(個人的意見)
- 東京には親戚がいないけど大阪ならいとこが住んでいるのでハードルが低いと思った
母は、3歳からずーっと同じ夢を言い続けている私を見てやっとこの時「本気で言ってたんだ。」と思ったそうです。
特に反対されず、行く方向で考えてくれたおかげでトントン拍子に話しが進みました。
大阪の公立高校を受験するには、三学期までに住民票をその学区にする必要があることを知り、急遽1ヶ月後に転校することに。
釧路のクラスメイトはみんな私の夢を知っていたので特にびっくりもせず、「広末涼子にあったらよろしく言って!」「ともさかりえのサインもらってきて!」「有名になってね!」など、ありがたい(?)言葉をかけてくれながらお別れ会もしてもらいました。
大阪の新しい中学では、みんなが受験でそわそわしている中3の三学期に転校生が来たもんだから、他のクラスの生徒も物珍しげに覗きに来たりしていましたw
「なんでこのタイミングで転校してきたん?」といろんな子に聞かれましたが、さすがに「タレントになるため」とは言えず、「親の転勤みたいなもんかな」と濁していました。
大阪の学校の偏差値もいまいちよくわからなかったので、受験する高校は制服で選びました。
本当はもう少し上の学校も狙えそうでしたが(たぶん)、公立に落ちると私立になってしまうのでそれは絶対に避けなければいけなかったし、確実に受かるであろう学校に選び、見事合格。
MIEの高校生時代
高校が決まってすぐの春休みからバイトがOKなことを知り、近所のファーストキッチンでバイトを始めました。
そこで稼いだバイト代は、タレント養成所の月謝にしました。
ツテも何もない状態で、新聞のテレビ欄の下でよく見かける養成所だったのですが、今考えると「詐欺」に近いと思います。
お金は高いけど売り込みは全くしてもらえず、毎週ストレッチや発声練習、たまに演技指導を受けていました。
ここにいる意味はあるのか?と疑問に思い始め、1年くらいで辞めました。
その後は、バイトと遊びに明け暮れる日々に。
バイトは、次から次と働いてみたいお店を見つけてしまい、常に3つ掛け持ちしては、もっと行きたいお店を見つけて1つ辞めてそこに行く・・・を繰り返していたので、合計20箇所くらい働きました!w
しかし、近所ばかりで働いていたので、母から「恥ずかしいからすぐ辞めていろんなところに行くの辞めて」と本気で嫌がられる事態に。爆
とにかく「早く大人になりたい」「早く自立したい」「自分でお金を稼ぎたい」気持ちが強かったので、高校卒業後は進学は全く考えずに働きました。
MIE初の就職活動
高校卒業後は、OPAQUE(オペーク)のコスメ売り場で働きました。
社員ではなく契約社員みたいな形だったのでボーナスもないしシフト制だし、バイトの延長感覚でしたね。。
美容は好きでしたが、この頃は肌の悩みはほとんどなく、スキンケアは肌水のみ。
しかし、入社してから20,000円くらいの高級クリームを使ったりした途端、肌がみるみるボロボロに。
この時から今もずっと、スキンケアはシンプルに越したことがない。と思っています。
OPAQUEも1年くらいで退社し、「一度くらいちゃんとした企業(いわゆる事務)に勤めてみてもいいな。」と思い、求人雑誌で見た会社に初めて就活らしいことに挑戦!
履歴書の書き方も独学。髪の毛も茶髪。カバンはその頃流行っていたDIORのボストンで面接に行って唖然。
30人くらいいましたが、みんな黒髪一本くくり、リクルートスーツにリクルートカバン。ピアスをつけてる人なんて一人もいません。
最後に質問ありますか?と聞かれ、何か目立っておかないと!と思った私は「転勤とかありますか?」と挙手をして、「女性は基本的にありませんよ!」「ありがとうございます!」と伝え、一次面接終了。
私の履歴書を見た友人は「なにこれ。こんなん落ちるに決まってるやん!」とみんなが口を揃えて言っていましたがみんなの期待とは裏腹に見事ニ次面接に進みました。
二次面接は、怖そうな大柄なおじさんが面接官でした。私の履歴書をまじまじと見て「字がきったないなー。」とニヤっと一言。
そんなこと言われると思っていなかったのでとっさに「え!これでも書道4段なんですけど。」とか偉そうなことを口走ってしまいましたが、「ハハハ、そうか」と笑ってくれたのでホッとしながら2時面接も終了。
あとから知りますが、あの怖そうなおじさんは会社のトップ(会長)で、「これから面白い奴が入ってくるよ!」と社員さんに報告していたそうです。
そんなこんなで30名もいた面接の中で、見事私が選ばれることになりました。
係長と部長はどっちが偉いの?
ブラインドタッチは一切出来ない。
敬語も微妙。
そんな私をあの時、「面白い」という理由だけで採用してくれた会長に感謝w
この会社は、あいのりに出演中も、そのあとも働くこととなり、結局トータル5年くらいはお世話になりました。
お酒の味もブラインドタッチも、敬語も、社会人に必要な基礎はだいたいこの会社で教えてもらいました。
会社員として充実する日々の中で訪れた転機
タレントとは全く違う職種ではあるけれど、どんどん責任ある仕事を任せてもらえるし、お給料も高かった(これ大事!)のでこの頃は満足していました。
毎日忙しかったし、このままキャリアを積んでいくのもアリだとは思いつつも、心のどこかで夢を諦めていませんでした。
そんな時、会社の先輩から原付バイクを譲ってもらい、原付通勤をすることになります。
自転車よりも早くて便利でどこに行くにも原付を乗りこなすようになった矢先、会社の帰り道で事故に遭いました。
お互い徐行運転ではあったので大事故ではありませんでしたが、どうやらボンネットの上まで飛んだらしい(記憶にない)。。
気付いた時には、道に倒れていて救急車で運ばれながら大泣きしていました。
幸いにも少し首が鞭打ちになる程度で無傷。
ただ、事故は事故なので検査やらリハビリやらがあるため約2週間の入院となりました。
社会人になってからは日々の業務が忙しくて自分と向き合う時間が全然取れていなかったことに気付き、ぽっかりと暇な時間が増えたことでまたいろいろとノートに今の気持ちややりたいこと、好きなことなどを書き殴っていました。
そして、入院中にお見舞いに来てくれた友人に「会社を辞めて、俺やっぱり歌やるわ」と報告を受けた時は、自分はこれで本当にいいの?とハッとさせられましたね。
人生は一度きり。
夢を目指すために母も巻き込んで大阪に出てきた。
自問自答する中で、答えはすぐに出ました。
このままでいいわけない。
そうなれば、いてもたってもいられないのが猪突猛進のイノシシどしの人間。
入院してる場合じゃない!
早く家に帰りたい!
会社にも辞めるって言わなきゃ!
またオーディションを受けよう。
主治医を説得して、通院はきちんとする約束で数日退院を早めてもらいました。
この頃をスマホもないし、Wi-Fiも普及してないから病室でパソコンってことも出来ない時代。
まずは会社に退職願を提出。
私がこうゆう気質なのは上司も役員も理解してくれていたので、正直に理由を話しましたが特に驚かれませんでしたね。
部長「でもお金はどうするの?働かないわけにはいかないでしょ?」
完全に見切り発車なのバレている。
MIE「はい。何かバイト探しそうかなと思っています。」
部長「でもバイトって言っても急な仕事で休めるところなんてなかなか見つからないと思うよ。」
「た、たしかに・・・・(心の声)」
部長「もし田中ちゃんが良かったらなんだけど、じゃあバイトとして会社に来ない?パートさんも教育係としてまとめ役になってほしい。それなら時給1800円出す。オーディションや仕事が入ったらそっちを優先してもらってもいい。どう?」
と好条件を定時してくれました。
まさかそんなことを言ってくれると思っていなかったのですごく嬉しくて即答でOKしました。
会社のメンバーは好きでしたからね。
そして、家ではネットで日々オーディションや事務所を探す日々。
その後すぐに、東京(交通費自費)で撮影会の仕事をさせてもらったり、大阪でも深夜番組の特番に出たりファッション誌のスナップに出たりと、細々ながら少しづつ活動していました。
今より約5キロ以上太っていて、顔もパンパンだったので自分に自信があったわけでは決してなかったけど、
「私は絶対このままじゃ終わらない!」という根拠のない自信だけはずーっと持っていて、それは今でも変わりません。
余談:昨年、四柱推命の先生に見てもらった時に「あなたは生まれた時から自信を持ってお生まれになられています。」と言われて爆笑しました。これやん。根拠のない自信は生まれた時からだったみたいです。おめでたい性格に生まれました。
話を戻して・・・
プライベートでは、高校1年の終わりから付き合っていた彼氏と別れ、なかなか好きな人が出来ない状態。
学生の頃みたいに直感で「好きかも!」ってなりたいのに職業や家の場所、年齢などいろんな条件に左右されて、その人自身を見る前にジャッジしてしまう・・
私は、芸能界を目指していますが結婚願望は普通にありました。
一生独身で芸能界で生きていくわ!なんて思いは全くなく、それとこれとは別の話。
ただ、メディアの仕事でお世話になる人に「彼氏は売れてから作りなさい。」と言われた言葉にもものすごく違和感を感じていて、「なんで?」と反発したい気持いました。
反発したいけど、好きな人が出来ない。
これはどうしたらいいのか・・・・と一人考えた答えは、
リゾートバイトに数ヶ月行く。
または、
あいのりに出る。
ことでした。
大阪で普通の生活を送っていても何も状況は変わらない。
誰も知らない場所に行くしかないんだ!
でも待てよ。リゾートバイトって毎日バイトせなあかんからまた結局恋愛どころじゃなくなるかも。じゃああいのり?ほとんと見たことないけどあれって本気で恋愛だけをするんだよね?それや。応募しよ。
ということで、決めたその日に同じマンションに住んでいた友人に電話をしてすぐに玄関前で写真を撮ってもらい、百均で履歴書を買い、フジテレビのHPを見て応募しました。
22歳。恋がしたくてあいのりに応募
その時、22歳。
つづく
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